何の前触れも無く、母が逝った
認知症は通常の老人ボケと区別しにくいので、いつから始まったのかはっきりしないのだが、母の場合、発症してから20年近く経っていると思う。家族ばかりではなく多くの人のお世話になりながらの生活だったが、最後は寝付くことも無くアッと言う間、ヘルパーさんの目の前で倒れてそのままになった。これで父母二人とも親を見送ったわけなのだが、できるだけのことをしたつもりでも悔いが残らないと言ったら嘘になる。振り返って、一番難しいと思ったのは、親が矜持を保とうと二人だけで頑張るのに対して「もうこれ以上年寄りだけでは無理、子・孫の意見に従いなさい」とのオーバー・ルールのコールをいつどのように出すべきか、その見極めの問題だった。
当然のことながら、「あれで良かったのだろうか?」と、問い続けている。時が癒してくれるのを待つのみである。
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周辺症状に悩まされた中等期
母と言う人は、昔は「知りたがり屋のウサギのピーター」だった。
干支もウサギなのは偶然だろうが、何でもかんでも知りたがり、自分が承知していないことがあるのを極端に嫌った。逆に言うと、あけっぴろげで、包み隠さないことがベストだという思い込みが強く、時と場合により正直であることが残酷だという事実には無頓着、知っていても言わないこと、知らないふりをすることで他人の気持ちを守ってあげる、というような配慮には欠ける人だった。
言わば、幾つになっても子供のようにストレートな人だった。本人に悪気はないのだろうが、一人娘の私は母の言葉に結構傷ついたものだ。
そんな母がアルツハイマーになり、母と長年連れ添った結果、嘘も芝居もできなく躾けられてしまった父・皐月誠三との確執は、おそらく大変なものであったことだろう。忘れる、という中核症状よりも、夜昼が逆になって生活時間がずれることとか自分でしまったものを他人に盗られたと思い込んだり、被害妄想を初めとした周辺症状に本当に苦労した。知っておいてほしい基本的な家族の最新情報を箇条書きにして置いたら、「これは人を見下した告知文で無礼だ」と怒り出し、暴力さえ使われた。それでもそんな自分になってしまっているという現実が全くわからない。だからアルツハイマー型認知症との診断が下された当時は、連れ添う父の方がうつ病になったくらいである。そして、妻の気持ちを尊重してやりたいという父の意思を尊重した結果、結局は母より頭も体も健康だった父が先に逝った。私たちの懸念そのままだった。
振り返ると、初期~中等期が一番やっかいだった。母は、良く「初耳だ」「そんな大事なことを私に無断で」とすぐにつむじを曲げ、周囲が「結託して作り話をしている」と被害妄想を抱いた。だから大事なことは録音したり写真に撮った。不思議なことに母の場合は、「録音してある」と言うとあっさり主張を引っ込めた。でも5分もせずに忘れたけれど。
一番醜悪だと思ったのは、現実を説かれ少し強くたしなめられれば、「ああ、わかった。要するに私に早く死ねってことね!」と拗ねてしまうことだ。小心な父にとっては、これが最も堪えるセリフだと知っていて、これを言う。それもその筈、母にとってそれが我を通すための長年の武器でもあった。そういう姑息な「手」に限って、なかなか忘れてくれなかった。
傍で見ている私の方が腹に据えかねて、何度母と衝突したか知れないが、そんな時も「僕が謝るから許してやってくれ」という父には負けた。「ここまで妻をわがままにしたのは貴方の責任だ」と父を責めたこともあったが、今は気の毒なことをしたと後悔している。
とにもかくにも、独善家の母が認知症になったことで、家族は疲れ切っていたのだ。
争いの嫌いな父のためと思ってこちらが折れて仕切り直しするのが常だった。実際、抗いの勢いでぶつけ合ってしまった心無い言葉の暴力によって、傷つくのは(記憶のある)自分ばかり。母の方は一時的に激高しても5分もしないうちに奇麗に忘れてしまっている。
この時期、母が病んだことで壊れていくのは、むしろ私の方だった。
納得させるキーワードと画像で作る自分史アルバム
それでも88歳で買い物中に倒れるまで、父は母の望むままに郷里の自宅で二人きりの生活を維持していた。その間の父の驚くべき寛容と忍耐には頭が下がる。深い愛情なしにはあり得なかったと思う。「どんなになっても、僕のパートナーだからね」という父の言葉が今も耳に残っている。どんなに認知症であっても、母に忘れて欲しくなかったのは、父・誠三のこの献身的な愛と、その結果もたらされた母の幸せな人生の軌跡である。
また、もともとは記憶力の良かった母の立場になってみれば、何も思い出せないことによる悲しみ、苦しみ、自分はどうなるのかという不安があるに違いないとも思った。
しかし、論理を積み上げる力が皆無になった母に、口頭で「AだからBだ」と幾ら説明しても無駄であった。母に残っているのは理屈ではなく感情だけ。事実で「説得」するのではなく、どんな嘘で脚色した話でも、本人を「納得」させればそれでOKなのだと専門家は言う。
そこで、とめどなくプライベイトな、しかし母にとって印象的な「A1、A2、A3・・・」を、幸せのハイライトとして解説付きの写真で並べ、「テ・デウム」と題する母の自分史アルバムにしてみようと思い立った。
「楽しかった」「嬉しかった」「(子や孫が)可愛かった」という、佳き思い出の断片を、このアルバムにより繰り返しなぞっていくうちに、母の心の中に「自分は幸せであった」という総論(=B)が湧き上がりやがて心の奥に根付くこと、そして、亡き父と天上の御父への感謝へと通じていくことにより、日常の母の不安が少しでも軽くなることを願ったのである。
長年住み慣れた家で幼い娘(私)を育てた時代から、孫たちと海辺の別荘で釣りや貝拾いして過ごした時代、そして老いて同居生活に入り父を見送って今日に至っている、母の人生のアウトラインがなぞれるように、古い写真を入れ、解説をつけて心を込めて編集した。
その最後の2ページはこんな風に締めくくられている。
サチさんはこのごろ、涙もろくなりましたね。
「もう生きていなくてもいいのに」と、すぐに口にされるのが気になります。
でも、思い出しましょう、
「野の花、空の鳥を見よ」「思い煩うな」と、イエス様がおっしゃったことを。
人が長年 生きてきて、悔いが無いと言ったら、嘘になります。
でも、お互いが良かれと願って、思いやり、精一杯生きた結果なら、
神様にはきっと許していただけるのではないかしら?
すべてを、「思し召し」と、受け容れましょう。
そして、自分が生かされている限り、投げやりにならず、前を向いて、
一日一日を歩いていきましょうよ。
この命に感謝して、「テ・デウム!(主を讃えん)」です。
だって、誠三さんに、生涯かけて愛され、護られてきたサチであり、華ですもの。
感謝して生きていくことこそが、神様と誠三さんへの恩返しですよ。
サチさん、
明日はきっと 今日よりいい日。
そう信じて、天からお迎えが来るまであと少し、頑張ってみましょうね!
あなたは決して独りぼっちじゃありません。
天から見守る方がおられます。
私たち家族も、地上にいてみんなであなたを見守っていますよ。
だから、一緒に唱えましょう。
感謝とともに、「テ・デウム!」と・・・
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<16年4月6日追記>
一人の認知症のケアには、複数の正常な方々による冷静な対応が必須です。
しかし、当人の性格やものの考え方、人生のバックグラウンドを知らない第3者は、問題が起きた時、どうしても一般的な対応をするしか無いのに対して、その人を知り尽くしている家族には、本人特有の落し処や納得させるキイ・ワードがわかっているという利点があります。
このアルバムにおいては、そんな言葉を沢山盛り込みました。母が夕方症候群になったり、夜中に施設内を徘徊して「家に帰る」と言い出した時などは、ヘルパーさんが自室に案内し、このアルバムを開いて一緒に読むことによって落ち着かせることができたそうで、その意味でも大いに活用して頂きました。
老い方も介護の形態も様々ですので、他にもいろいろな知恵があることでしょうが、私の場合、たった一人で24時間母と向き合い、我慢大会のように同じ問答に晒されながら在宅介護を続けるという生活の中では、身も心も追い詰められてしまい、このような試みをする余裕は決して生まれてこなかったでしょう。
このアルバムは、介護の中でも家族以外の行うことが出来るものは他人にお任せし、娘の私でなければ出来ないことのみを追求して行った時、初めて浮かんだアイデア・ツールでした。
私が「母思いの優しい娘」でいられたのは、介護看護の多くのプロの助っ人さんたちのお陰に他なりません。 日頃施設で母に接してお世話くださった皆様への心からの感謝を。 そして私と同じような立場にいらっしゃる方に、認知症介護を一人で抱え込まないで、と。家族だからできることをこそ、精一杯してあげるよう、エネルギーを取っておいてください、と申し上げたいと思います。
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