ボランティアで行う活動において「質」を保つための努力は不必要なのだろうか?
これまで、母がお世話になった老人ホームで実践をベースにして、高齢者と歌を歌って楽しむ集いのあり方を自分なりにまとめ上げ、かなり明確な方向性が見えてきたと思っている。
先日、新たな場所でのお誘いを受けたことが契機となり、そこでも出来るだけ速やかに安定した形で集いを提供できるような方向付けをしたいと考え、たとえ月に1回といえども、バックステージでの準備や当日の役割分担が必要であることをお話し、近隣で参加可能な複数のボランティアによる「チーム」の構築(募集をかける)を提案したのだが、結果的に施設の責任者が「うちではそこまで求めていない」「複数のボランティアとなると受け入れに協力する余裕が無い」との返事で、結論を言うとそれ以上は駒を進められなかった。
先日、新たな場所でのお誘いを受けたことが契機となり、そこでも出来るだけ速やかに安定した形で集いを提供できるような方向付けをしたいと考え、たとえ月に1回といえども、バックステージでの準備や当日の役割分担が必要であることをお話し、近隣で参加可能な複数のボランティアによる「チーム」の構築(募集をかける)を提案したのだが、結果的に施設の責任者が「うちではそこまで求めていない」「複数のボランティアとなると受け入れに協力する余裕が無い」との返事で、結論を言うとそれ以上は駒を進められなかった。
私が第1に強調したのは、そもボランティアとは、誰かが誰かに何かを一方的に提供するものではなく、互いに与え合う双方向の活動であるということである。
それは、このボランティアに参加するうちに、引きこもりを脱して初めてピアノが弾けることに幸せを見いだし、自信を付けて極度の吃音さえ克服、「卒業=就職」していったMさんが生きた証人である。
第2に、この活動を成り立たせるために必要なのは、ピアノ・キーボードの技術だけではなく、音楽を通して高齢者と「人と人」として関係を築けるかどうか、そんな信頼関係に基づいて、集団を合目的的にマネジメントする力であること。
私の思いとのギャップは、施設側が言う「ちょっと弾いて下されば済むことでしょ?」という言葉に凝縮されている。
勿論、声や楽器による音楽演奏にある程度堪能であることや、歌を愛し広く知識を持っていることは必要条件には違いない。けれど技術や知識が十分条件ではないのだという話が、結局は理解して頂けなかった。単に“入居者の要望にお応えしていますよ”という施設運営側のアリバイ作りに利用されるだけだと言うことだろう。
「そこまでは求めていない」・・・私の言っていることはそんなに高い要求だろうか?人として持つべき当たり前の敬意があったら、当然のことであると私は思う。
たとえ音楽療法士など有資格者による治療目的の働きかけでは無くても、音楽をツールとして人間が人間を対象にすることに変わりは無い。内容論としても方法論としても、「質」を保つ努力を忘れてはいけないと思う。“カラオケで流行歌を歌うより、生で唱歌が歌いたい”と自ら希望した方たちであるならなおさらであろう。この集いを希望してこられた方たちには引き継ぐことが叶わなくなって申し訳ないと心が痛む。
しかし、残念だけれどこれが現実である。
私がもう少し自由自在にピアノが弾けていれば、ということと、加齢による限界がすぐそこに来ていることと・・・。協力者無しに新しい場所で展開していくパワーが私には足りない。
ただし、物事は考えようである。「一粒の麦、もし死なずばただ一粒にて留まる。死ねば多くの実を結ぶ」という喩えが聖書にある。
私がもし、若くて前途洋々、一人で何もかも出来る人間だったら、チームも協力体制の工夫も生まれなかったかもしれない。
そう考えて、超高齢化社会の中で支え合って生きていく知恵のひとかけらかも知れないけれど、私は少しでも多くの実を結ぶ、麦の一粒でありたいと思うのである。