2016年2月23日火曜日

障害者差別禁止法について考える

 先週の土曜日に、この4月から施行されるという「障害者差別禁止法」(正式名ではないけれど)について弁護士さんの講義によって学び、実際に障害を持つ子供さんを公立の学校で歩ばせてきた親御さんや、障害者のための就労施設の運営者の方、そして役所の担当者のリレートークを聞く機会を得た。

 それぞれ短い時間だったが、とても感動的な実践のお話を聞くことができた。
条文化された法律というものはいちいち言葉の定義づけから始まるからわかりにくい。しかし、人をハンディキャップがあることだけを理由に差別してはならない、という法の精神そのものは、非常にシンプルでわかりやすいものであるはずだと私は思う。それは、法律だから間違っているのではなく人としての道に反するからしてはならないのだ。

人としての道とは何か?それは社会的な生き物として互いに助け合いながら生きる存在であるということ、どんな個人も一人では生きられず、利益は分かち合い不完全な部分を補い合って生きていく社会的な動物として、人間の本質から外れない生き方であろう。法の作られた根拠となるものは心であり、それはごくごくシンプルな、ほとんど理屈もいらないほど容易に受け入れられ得る、本能に近いものであると思う。

 ところで、「障害だけを理由に、合理的根拠なく不当に差別してはならない…」この「合理的根拠」という言葉に、私はどうも違和感があって引っかかるのだ。
何が「合理的」で何が「不当」か。例えば、ラッシュで皆が急いでいる時に、バスや電車など公共の交通機関の乗り降りに時間をかけることはどうしても嫌がられる。公共の利を優先して「障害者はラッシュ時には乗るな」と大っぴらに言ったら罰せられるだろうが、現実には暗黙の内に私たちは(視線や言葉などの)態度で障害者を排除していることに、どのくらいの人が気づいているのか。「妊婦って障害者だっけ?」とあからさまに優先席の妊婦さんにマタハラ発言をした大学生らがネットで話題になったが、10歳くらいの娘さんの逆鱗以前にどうして周りの大人たちが一斉にその大学生に非難の目や言葉を浴びせなかったのか。私はそのことにショックを覚える。何とカサカサした世の中になってしまったのだろう。高等教育を受けていても人として全く育っていない人間ばかりが日本にはあふれているのである。こんな社会で法律が出来たって、一体実効性は望めるものなのか?と不安を抱くのは私だけなのだろうか。

 私は自分の親からあまり良かったと思う訓示を受けていないのだが、一つだけ良い記憶として残っている言葉がある。それは、障害者を見かけると母から「気が付かないふりをしなさい」と言われたこと。しつこく言われた「思いやりを持て」という言葉は独善家の彼女の口から出ても全く空しく響いたけれど、この「気が付かないふりを」という言葉はとても具体的で意味深な指導だったと思う。この言葉は好奇の視線に晒される方たちへの思いやりのあり方を教えてくれたし、長じてからは寧ろ手助けが必要では?自分が役に立てることはないか?と、それとなく観察する方向に育っていったから。

 私はこれまでボランティアとして自分の長所を生かすことにとても熱心に取り組んできた。その中で、ある時は難病患者さんが医療制度と福祉制度両方の狭間でたらい回しされたり、役所の担当者の心無い言葉に苦しむ姿を尋常でない数見たし、来日した外国人の子供たち対象に日本語を始めとした適応教育指導に携わりつつ、日本の教師も親も学校も自治体も政府も・・・大人たちの意識の閉鎖性、非国際性、視野の狭さに愕然とし失望の連続だったことを思い出す。
障害者差別禁止と言うが、合理的で正当な処遇かを個々の事例ごとに判断する時、本当に障害者個人の権利が公共の利益に駆逐されてしまう可能性はないのか?それを決める司法を信じることにためらいを感じてしまう。むしろ、法律に定めなければ弱者が保護されないような現実の人間社会であることに嘆きさえ覚える。

 「法律には法律の役割があるんです」と、かの弁護士さんは言う。憲法さえも無視され蹂躙されている昨今、この動物的で次元の低い政府のもと、どこまで実効ある運用がなされるか、よくよく見守っていかなければと思う。

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