TV番組で私が一番好きなのは、洋ドラ、それも刑事・捜査・法廷ドラマである。
FOXのLaw&Orderシリーズはその代表だろう。かつてネイビー・ファイルも好きだったし、ボストン・リーガル、アリー・マイ・ラブ、ホワイト・カラー、NCISは今もシーズン14までシリーズが続いている。
それは多分、推理小説が大好きだった母の影響だと思う。我が家にテレビがお目見えしたのは私が小学生のころだったが、番組表からお気に入りの推理・犯罪捜査系のドラマを選び出しては母と一緒に観て、結末を競って予測したものだ。
中学生の頃は「サンセット77」「バット・マスターソン」もうちょっと後に「刑事コロンボ」、まだまだあったけど、覚えていない。
この間の町内会の保険の問題では、無数にこういう海外の犯罪捜査や法廷での裁判の話を見てきた目で見て、損害賠償を町内会が支払うケースなど、直感的にありえないと思った。
意図的に犯罪を犯した個人の責任でさえ、公正な手続きを経て得られた明確な証拠が無ければ起訴もできない。ましてや過失責任も含めて、ある人間への有罪を勝ち取るには大変なプロセスがあり、動機に始まり、手段、時間、その他事実のつじつまが合うまで実証していく努力が要る。
ましてや、仮にそれが町内会という組織となれば、それを立証するのがどれだけ困難な話か。大体、営利を追求して利益がどこかと対立するような組織ではない。善意のボランティア団体なのである。どんな事故のシナリオを書けば責任の存在が立証でき、膨大な責任を追及されることになるのか、何十年とミステリー漬けで生きてきた私にも全く見当がつかない。
そんな非現実的なケースに備えるよりも、まずは起こりうる事故に対する責任を負わされないようにする方が先だろう。被害を生じさせないこと、また起こった被害は拡大させないような対策を講じることが重要だと思う。責任を問われる時、必ずキイになるのは「予見可能性」とその対策の有無なのである。どうしてそこがわからないのか、私には信じがたいほどの想像力の欠如と映る。
今回、この町内会でのたった一つの行事としての「餅つき大会」に当たり、私は救急箱の設置の提案と、特に高齢者に多い餅の詰まらせ事故に備えて充電式の掃除機を持ち込んだ。
「賠償保険金を増やすより先に、予測可能なリスクに備えよ」ということを、身をもって示したつもりである。
幸い、熱湯の運搬中のやけど、餅の処理中の切り傷、子供の転倒、色々と可能性はあったけれど、全く事故は起こらずに終了できた。それが何よりであったが、もし、起きた時に誰がどのように対応するのか、もっと皆が知恵を出し合って備えるべきだったと思うが、私以外の殆どの役員が、お金以外に考えつかなかったということに、一種の「あさましさ」を感じるのは私だけだろうか?
あなた任せに生きてるようで、私って結構注文の多い人間です。 ガーデニング、歌、デジカメ写真とその編集、SNS、手仕事・・・ 好きな物を全て身の回りに置きながら、世の物事を愛でたり貶したり、思いつくままをブログに書いています。
2016年12月6日火曜日
2016年12月1日木曜日
「シニアと歌う活動」へ新たなお誘いを受けて
何を隠そう、私も来年の誕生日を迎えれば「古稀」となる。
「団塊」と言われる世代の真っ只中の私たちがこの年齢になるということは、ただでさえ老人が増えている日本社会に更に爆発的に高齢者人口が増えるということでもある。
そんな風に高齢者社会になり、医療・介護・福祉サービスを適用される人が溢れている中で、音楽を使ってのリハビリを兼ねた娯楽行事、或いは日常的催しの機会も増え、その牽引役として、私が偶発的に始めた「シニアと歌う懐メロの集い」活動と似た動きをするグループは全国に無数に生まれていると思われる。
写真:HTバラ 「ホワイト・クリスマス」
高齢者と共に歌を媒体として音楽を楽しむ、パフォーマンスとして「参加型」の演奏会という呼び方も出来るこの活動のあり方を考える時、何を心していくべきか、このブログを立ち上げた当初から、私は常に模索し続けてきた。私の学びを少しでも参考にして、この種の活動の平均点を上げることができたらと言うのが私の願いでもある。
ポイントは、従前はよくあった単なる「慰問演奏」には終わらないということ、自分たちの演奏を「聴いて貰う」のではなく、「共に演奏する」ことに重点を置いたプログラムで臨むという点である。
具体的に何をすればいいか?
それは一口に言えば、参加者(高齢者)側を知ってそのニーズに添う、という1点に尽きる。どんな人たちで何を求めて来るかということである。
その上で、歌については 1.選曲 2.音域 3.テンポ 語りについては 1.話題 2.深さ 3.話す技術 に留意せねば、ただ形として催しはこなせたとしても、実りの薄いものに終わってしまうだろう。
過去、娘の参加したある音楽家のグループのように、打ち合わせも無くぶっつけ本番で、ミスだらけの上っ面なものでも、相手はわかりもせず、どの道喜んでくれるんだからそれでいい、という考え方もあるだろう。(2014年3月3日の記事参照)でも私は同意できない。高齢者に残された時間は少ない。その貴重な時間を私たちは共有するのである。その共有は人としての敬意を持ってなされるべきものではないか。無駄遣いでいい筈は無い。
昨日の他のグループの活動から、新鮮に見えた良い面がたくさんあったし、また更に活動が生きてくると思われる留意点(赤文字表示)もいくつか気づいた。
継続して係わることができそうなので、この幸運をお互いに生かして行けたらと思う。
<留意点として感じたこと>
音域・・・上のD音、E音がたびたび出ていた。唱歌は基本的に児童・生徒世代の声域の高い時代に向けて書かれたものなので、声域が狭まりかつ低くなった高齢者に、原曲の調で歌わせるのは無理がある。仮に移調して最高音が上のCくらいまでに抑えれば、もっと歌えるはずだと思う。
テンポ・・・日常的に歌っていない高齢者が歌う場合、1音出す(声帯を合わせる)のにも時間がかかる。発声練習では、16分音符でドレミファソファミレド、ではなく、2分音符でドーレードーとかドーミードー、などをじっくりゆっくりするのが適当と思う。「かえるの歌」をゆっくり歌うのもいい。
話す技術・・・声の大きさが不足していて耳の遠くなった高齢者へのケアが足りないと思う。(騒がしい子供には逆に小さめの声で、と言うが)また、早口で多くの言葉を言い過ぎる。繰り返しも多い。情報を整理して言葉数はできる限り少なく、ゆっくり、はっきり発音して1度で確実に伝えることに気を付けたい。
感心したのは一つ一つの歌について、作られたり発表された年などの背景を実に詳しく調べてこられ、解説をつけて歌っていられること。また、いきなり与えられた「ボケます小唄」及び「ボケない小唄」と称する替え歌の歌詞を、お座敷小唄のメロディーに載せて歌うことが、練習も無く出来てしまったということ。
これは施設自体が入居者対象を「介護を要せず自立した高齢者」に限っていること、そのような頭がかなり健康なご老人たちばかりが相手だからこそである。こういうことは、殆どが要介護の方々で占められている私の活動拠点施設ではできない。やってもその時間はお互いの思いがすれ違ってしまうことだろう。
これは施設自体が入居者対象を「介護を要せず自立した高齢者」に限っていること、そのような頭がかなり健康なご老人たちばかりが相手だからこそである。こういうことは、殆どが要介護の方々で占められている私の活動拠点施設ではできない。やってもその時間はお互いの思いがすれ違ってしまうことだろう。
私自身、5年前に始めた当初、童謡・唱歌を今よりずっと多くして思い切り易しいプログラムにしていたつもりなのに、それでも施設側担当者に「貴女の選曲は難しいと思う」と言われた覚えがある。スタンダードな歌集に酒席で歌うような演歌を入れるべきか、あるいは母の好きな女学校で習った外国曲を入れるか否かで迷ったことも一つの経験としてある。何をもって難しい/易しいとするか、良く考えれば主観に左右されるということでもある。最後は私の「自分らしさ」に帰ってくる話であると割り切っている。
その後、施設が住宅型から介護付老人ホームへと改変されたり、度々施設長も担当者も交代してそのたびに受け入れる入居者の要介護度・認知症の重症度も微妙に変化して来た。リクエスト曲も様々であるし、それに添って歌いながら・弾きながら・聴きながら、毎年のように選曲を見直してきているのが現実である。反応を見ながらやっていくと、自然にそうならざるを得ない。
いずれにしろ、今回の新しいお誘いによって、「相手を良く知ってニーズに添う」 ということを再認識させられた。
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