2017年2月21日火曜日

あえて「目的は?」って聞かれて

 母の老人ホームでの懐メロを歌う集いだが、母亡き後も続けて欲しいと希望してくださったのでとうとう丸6年、月に1回を貫くことが出来た。
 その上、参加希望者が当初のリビングでは入りきらなくなったので、食堂に移して開催して欲しいとの申し出。嬉しいお話である。

 

 これほど喜んでくださるなら、他の施設や、あるいは自分の住んでいる地域でも(居住者の高齢化が進んでいることだし)同じような、「愛唱歌を歌って楽しむ」趣旨の集いが出来ないものかと思っていたところ・・・

 いつもワンちゃんのお散歩途中に、我が家の生け垣の隙間から庭のバラを覗いていくお父さんの奥さんが、音大出で声楽家だと知る。私もコーラスにハマっているので意気投合して話すうち、最近地域のコミュニティセンターとして開放された施設に、防音と電子ピアノが備え付けられていることから、彼女やそのお仲間による声楽のコンサートと、私の、素人が皆で歌って楽しむ集いとをコラボさせた会を定期的に開こうという話になった。定員がたった30人なのだが、その程度集まれば十分ということでチラシを作成してPRしている。

 この歳になって今更目立ちたくてやるわけではない。寧ろその逆で、今からそんなこと始めちゃってどうするの?という処はある。でも、千葉という処に住んでやっと10年、町内会役員をしてみて少しだけ知己が増えてはいるのだが、そうでもなければ全く「隣は何をする人ぞ」数件向こうに離れたら、もう皆目、顔も名前もわからない。これでいざ大災害に見舞われて、安否確認と言ったって避難所生活と言ったって、スムーズにことが運ぶわけがないと思う。そんなことになる以前に、少しでも人と人の絆を強めておきたいと思う。夫から「何でそんなことを。目的は?」と聞かれて即座に「親睦」と答えた。
 人と人が絆を深める一番は「飲食」を共にすることだろう。「スポーツ」もある。そして「音楽」と呼ぶには及ばないかも知れないが、思いをメロディーにのせた「歌」は人を繋ぐのにとても有効なツールだと思っている。
 高齢化してなかなか外に出ようという意欲がなくなると見え、孤立していく家庭も少なくないというのが現実だが、音楽には癒やしの効果もあるので、極力私の担当する「皆で歌おう」部門では、楽譜が読めなくても、声が出なくても、対応できる形を目指したいと思う。歌詞カードと生ピアノの伴奏ーーオーケストラの録音ではなく、高さもスピードも、どの曲を何番までか、前奏間奏も自由に決められる、これがミソ。

 思う時期に会場予約が取れたので、とりあえず4月早々に第1回を<春の会>として出来ることになった。古稀を前に、私自身のチャレンジでもある。


 

2017年2月15日水曜日

暖房無しの部屋で頑張る事情

 今夜も外は-3℃~5℃くらいになっている。
 そんな夜中に、私はパソコンからプリントするために、家庭用プリンター複合機にへばりついている。しかもこの部屋には暖房が無い。あったけど壊れてしまった。冬になって間もなくに、変な音がしてついにお釈迦になったのだ。仕方が無いから今はダウンのオーバーコートを着て作業している。
 

 すぐに直したいのはやまやまだけど、何しろ私専用の書斎というかパソコン部屋であり、洗濯物干し場でありアイロン部屋であり、時にはミシンも持ち込む・・・つまりは作業部屋なのである。整理整頓が大の苦手な私の作業部屋ということは、別名を倉庫とも言う。
 てわけで、エアコン取り替えして貰う前に、電気やさんをお通し出来るようやらなきゃならない大作業があるんだけど、次から次へと優先事項が出来ては先延ばしで、いつまでたっても片付かない。

 それで結局、リビングのお客様用のテーブルの上に娘と一緒にパソコンを並べた。昨日まではそれほどプリンターに長くへばりついていなくても良かったので、寒~い書斎にいなくても用が足せた。だから個々の部屋でエアコンをかけるよりも今年はかなり節約になっている筈、とほくそ笑んでいた。

 でも、今日はそうはいかない。
 懐メロ歌う会の延長で、4月からある新しい企画をもくろんでいる。そのチラシの印刷なのだ。たったの25席という小さな会場だが、近所に在住の(自称?)声楽家らによるミニ・コンサートと、懐メロを歌って楽しむ会とをドッキングさせてみたらどうなるか?という実験みたいなものである。
 名付けて「歌友(うたとも)くらぶ」。同じ県内で「うたごえ倶楽部」という同じ趣旨のグループがあるようなので、半分真似して名付けた。

 母のところでのボランティアはそれはそれで続けられる限りは続けたいが、町内会役員をして初めてわかったのは、いかにお互いのことを知らないかということだった。それが人も羨む「閑静な住宅地」というこの地区の落とし穴かもしれない。

 しかし、自分も含めて高齢化の流れの中、物理的条件以上に人々は孤立化し、ますます互いの顔が見えなくなっている。災害が起きることも十分予想される以上、災害による相互助け合いの必要が生じる事態になる以前に、身近なところで少しでも人を繋ぐ切っ掛けを作っておくことは大事なのではないか。楽しみながら何かできればと思うのである。


2017年2月3日金曜日

PTAって、「入らない」選択もあったのか。

 知らなかった。
 PTAって、強制力の無い団体だったのね。子供が入学した以上は親がPTAに入るのが義務だと思っていたから、入会しないという選択があるとは思っていなかった。NET(mixi)にこの記事を見つけて、目から鱗だ。

  

 昔、子供たち3人の幼稚園や学校で、ずいぶんとPTA役員をした。特に上の子供より3人目の子の時が。親となってからはずっと専業主婦だったし、上の子供たちの経験からある程度PTAというものの役割が見えてきていたので、もう否応無しに役員、それも「長」の付く役が回ってきて、最後は会長までやることになったものだ。

 例年、年度変わりの時期になると、若いママ友の間はで「どうやって役員を逃れるか」という話題で盛り上がるのだそうだ。よく分かる。役員はやはり大変だし、個人の適性もあると思うから。
 もしフルタイムで職を持っている人なら、分身の術でも使えない限り、大変な犠牲を強いられることになるだろう。病や障害を持つ親族の介護看護をしている人も同じである。
 また、 内気で、極端に防御意識の強い人が、学校(教師)と親たちの間に立ってキーマンとして動くことになったら、それはそれでものすごいストレスだろうと思う。(ただ、これは客観的に判断しにくい問題なのだが)

 得てして、そういう事情を抱えた人がおずおずと、或いは堂々と、「辞退させて欲しい」旨を申し出た時にどう対処するかで、そのグループのその後の雰囲気が決まってしまうと私は思っている。
 シラっと「誰もがやりたくないのだから、条件は同じ」と言い放つ人がいて、「姑や小姑らから暇人だと思われたくない」などという問題まで同等の事情として持ち出し、一刀両断に「くじ引きしましょ」という流れになるとすれば、その後のまとまりは最悪である。
 人としての思いやりに欠け、自分の利しか眼中に無い。その流れを是認するような出発をしたら、そのグループが、子供たちを良い条件で教育したいという大きな共通の目的のためにその後も協力出来るとは思いにくい。 
 そこで大抵はそういう状況を見かねたお人好しが引き受けることになる。その何回かは私だった。

 けれど、その背景には「PTA加入は義務」ということが大前提だった。
 それが思い込みだったとなると・・・
 今後は、学校はこの件についてきちんと周知させるべきだ。そして、役員のがれのためのPTA非加入という選択を増やさないよう、きめ細かい対応をする必要がある。例えば、PTAに加入しても役員をせずに済む条件提示をするとか。
 
 また、ネット記事には、役員をすることによるメリットの方も書かれていて、確かに私はそのメリットを存分に享受してきたと納得する内容だった。もしかして、敢えて役員を引き受けることによって、他の人の利益のチャンスを奪ってしまったのかも知れないとさえ思った。それなら、今後は専業主婦でなくても出来るようなPTA活動へと、社会の現状に合わせた見直しも必須だろうと思う。
 色々なことを思い出し、考えさせられました。