水曜日、母校の心理学専攻卒業生が中心になって立ち上げ育ててきたカウンセリング研究会グループの、受講生向けワークショップに参加してきた。
(画像:ユリ・トライアンフェータ)
実は私はこの研究会に所属した時点ですでにボランティアをいくつか掛け持ちしていたこともあって、この会の主目的であるカウンセラー養成に直結する講座にはほんの少ししか出席できず、従って厳密に言えばこうした講演を聞かせていただく資格すら満足に得られていないのだが、友人のちょっとした思い込みのおかげで?会費を払い、ずうずうしくも出て行っては毎回質問や感想を発言までさせていただいている。前回は前回で「母性という名の神話」がテーマだった。
もういい加減にしゃしゃり出るのはやめようと思っていたのに、今回はテーマが「音楽療法」とのこと。しかも講師は高齢者へのそれを長年実践してこられたと聞いて、自分の懐メロの会の実践とも極めて近いのでお話を聞きたいと思った。
(画像:ニワナナカマド)
1時間半の講義とワークとを終えての感想としては、いくつかは長年の実践に基づく貴重なポイントが示されていたのだが、失礼ながら、講義としての流れがよく見えず、少々まとまりに欠けるお話だったように思う。おっしゃりたいことは大体わかったけれど・・・
勿論、大切な高齢者の時間を、共有するという形で「奪う」ことになる活動であるから、それが認定カウンセラーや認定音楽療法士など社会的に資格を認められた方であろうと私のように只のボランティアであろうと、真摯に向き合わなければいけない点は全く同じである。
「あくまでも主役はこちら側ではなくクライアント」であるということ。そして「一つの音/音楽への感じ方は一人ひとり異なるものであり、反応も様々だ」ということ。さらに「結果(効果)を評価する明確な基準も尺度も存在しない」ということの重み、というか複雑さが、音楽療法という行為や療法士を定義づけたりオーソライズ出来なくしているという現状が良く分かった。
(画像:アジサイ・クララ)
身体的、精神的に障がいのある人々・高齢者・旅立とうとしている人々にとって、音楽療法とは、医療なのか教育なのか福祉なのか、そも、一体何なのか。そこが日本においては国家資格として認められない大きな要因となっているという。改めて考えさせられた。
「音楽は手段の一つであるし万能ではないということを、いつも肝に銘じています」と彼女は言う。
けれども心を和ませ開かせ通わせる手段として、非常に大きな力のあるツールであるということに関して、参加者からも次々に体験談が語られた。まだまだ研究半ばかもしれないが、手探りであっても、一人でも多くの有志がこうした活動に参加し、持てる力を注いでいってほしいと思う。
「ここで歌わなかったら、二度と出会わない歌に出会えたよ」
「昭和の歌と共に生きてまいりましたので」
「どうして涙が出るかわからないけど涙が出るの」
と、涙を流し、私の手を取って離そうとしないかたがた。
無数の「有難う」を頂いてきた。
そればかりでなく、
「先生、私、ピアノが弾けて良かったと思えました。今、幸せです」
「あんなに遠い目をして・・・何を思って歌っていられるのかと思うと」
提供する私たちの胸にも、セッションの度に大きな感動を貰える。いや、提供とか供給とかいうよりも「共有」という言葉こそが相応しい。
この活動に参加するまでは、重度の吃音のため友人はおろか教授からさえハラスメントを受け、音大を中退に追い込まれた閉じこもりの娘さんがいた。3年を経て、すっかり脱却してストレスなく話せるようになり、職を得て「卒業」していくまでになった。
音楽のちから。
万能ではないけれど、確実に何かをもたらすもの。
0 件のコメント:
コメントを投稿