2016年5月7日土曜日

節目:パラレルに進行してきた私のボランティア




私のボランティアは、大きくわけて3つ。
 ここでテーマとして書いている「懐メロ=音楽」以外に、「日本語」と「難病」がある。
 もともとの職業が教師だったから、懐メロの会と日本語は根っこで同類なのだけれど、最後の難病の患者会運営ボランティアは、自分も家族も病気とは無関係だが医者の先輩の依頼で偶然関わるようになったものだった。
 郷里・浜松で準備会を立ち上げ、平成5年に全県組織として設立、2年後には東京に本部のある全国組織の支部へと持っていった。その後東京に転居したため、支部の事務局長と本部理事も兼任、一時は広報担当として機関紙の編集やオフィシャル・サイトの責任者も務めた。
 父が倒れ、認知症の母と二人を引き取ることになってやむなく全てを他の方に交代して頂くことになったのだが、せめて一つはと続けてきたのがそのサイトへの花写真の投稿である。余りに深刻な難病のサイトだったので、ホッとする場所をと思って作ったメニューだった。
 このたび、サイトのリニューアルに伴ってそのメニューはリストラとなるそうだ。
 振り返ってみると最初の投稿は2006年の5月だった。
 今月、最終回として送った投稿を、ここに転記しておく。
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5月の花だより


ようやく春らしいぽかぽか陽気が訪れて、一気に草木の芽吹きが進み、町のあちこちで花が溢れています。我が家では早くも色づいてきたサクランボをめぐって、鳥たちの声が飛び交ってそれは賑やかです。


<一重のモッコウバラ>
 モッコウバラと言うと黄色の八重咲き種が一般的に知られていますが、今年は一重の方も咲きました。
 しべが可愛くて思わず笑顔になりました。





 <クレマチス~阿吹~> 少し青みのかかった淡いピンクの大輪花をたくさん付けます。
 
この春の新種として売り出されたクレマチスです。


<薔薇・東雲(しののめ)>
 アプリコットオレンジの一重の花が房になって咲きます。
 その名の通り、日の出前に茜色に染まる雲の色です。
 今日一日がいい日でありますように。
 そして明日は、もっといい日になりますよ
うにとの、祈りのこもった色に思えます。




 20065月以来お付き合いいただきましたが、本サイトのリニューアルにあたり、「四季の花便り」は今回が最終となりました。 長きに渡り私の拙い写真とおしゃべりを読んでいただき、有難うございました。
 病気であるか否かにかかわらず、日々の些細な
物事にも心を込めて接し、時を愛しむ気持ちだけは持ち続けていたいものと思います。
 花を「美しいな」と思われた時、私のこと
も思い出していただけたら嬉しいです。
                           (サイトのコピー終わり)
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 難病にかかわり始めてからそんなに過ぎたとは。そしてこちらのサイトへの投稿はちょうど先月で10年経ったところだった。
 懐メロ5年、花写真10年、なんだか本当に「節目」という言葉がぴったりくる年になった。私自身もどこかをリニューアルできるといいんだけれど・・・

                     (Yahooブログ「シニアと歌う懐メロの集い」より転記)

2016年4月19日火曜日

春は春とて・・・

 今日も忙しかった。
 何と言っても、植物が目覚め始めるとほぼ同時に害虫も動き出す。施肥・消毒・伸びすぎたグランドカバープランツの整理、やり残した誘引・剪定の駆け込み作業・・・・etc.etc.

 朝ごはんを忘れて1時2時、食べた後なら4時ぐらいまでぶっ続けで外にいると、顔はザラザラ、塩を吹いてしょっぱいし、脚がなんだか持ち上がらなくなっていたりする。
 うわ、緊急事態!と水筒に入れたドクター・水素水を飲む。疲れた。

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 母の骨をお墓に収める日取りが決まったのでホッとした。
 一昨日、懐メロボランティアの例会だったので、ホームの入居者仲間だった皆さんへの報告とお礼を述べさせていただいたのだが、階も食堂も別だし、完全に個室だしで、未明に突然起きた母の死に全く気づいていなかったと愕然とし、涙を浮かべて別れを悲しんでくださる方々が何人もいた。

 認知症のため自分の状況も理解できない母だったのに、そんな風に友人として普通にお付き合いをしていただいていたのだと、胸が熱くなった。プロの職員さんたちだけでなく、同じ入居者として、何度でも母の同じ質問に答え、自室がわからなくなったら教え案内し、自然態で間違いにも大らかに接して頂いたからこそ、母は5年半もの期間をホームで安定して暮らせたのだと思う。何より、生きていく仲間として、母に敬意をもって接して頂いた。心から、本当に心からの感謝の思いを伝えずにはいられなかった。

 皆さん、本当にありがとうございました。
 母・サチと共に御礼申し上げます。


 
 写真 : 桜「思い川」
       (我が家の6本の桜のうちで一番のお気に入り)
 

2016年4月5日火曜日

亡き母のこと~認知症と「私流」に闘いながら

 何の前触れも無く、母が逝った

 認知症は通常の老人ボケと区別しにくいので、いつから始まったのかはっきりしないのだが、母の場合、発症してから20年近く経っていると思う。家族ばかりではなく多くの人のお世話になりながらの生活だったが、最後は寝付くことも無くアッと言う間、ヘルパーさんの目の前で倒れてそのままになった。

 これで父母二人とも親を見送ったわけなのだが、できるだけのことをしたつもりでも悔いが残らないと言ったら嘘になる。振り返って、一番難しいと思ったのは、親が矜持を保とうと二人だけで頑張るのに対して「もうこれ以上年寄りだけでは無理、子・孫の意見に従いなさい」とのオーバー・ルールのコールをいつどのように出すべきか、その見極めの問題だった。
 当然のことながら、「あれで良かったのだろうか?」と、問い続けている。時が癒してくれるのを待つのみである。
 

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 周辺症状に悩まされた中等期

 母と言う人は、昔は「知りたがり屋のウサギのピーター」だった。
 干支もウサギなのは偶然だろうが、何でもかんでも知りたがり、自分が承知していないことがあるのを極端に嫌った。逆に言うと、あけっぴろげで、包み隠さないことがベストだという思い込みが強く、時と場合により正直であることが残酷だという事実には無頓着、知っていても言わないこと、知らないふりをすることで他人の気持ちを守ってあげる、というような配慮には欠ける人だった。
 言わば、幾つになっても子供のようにストレートな人だった。本人に悪気はないのだろうが、一人娘の私は母の言葉に結構傷ついたものだ。

 そんな母がアルツハイマーになり、母と長年連れ添った結果、嘘も芝居もできなく躾けられてしまった父・皐月誠三との確執は、おそらく大変なものであったことだろう。忘れる、という中核症状よりも、夜昼が逆になって生活時間がずれることとか自分でしまったものを他人に盗られたと思い込んだり、被害妄想を初めとした周辺症状に本当に苦労した。知っておいてほしい基本的な家族の最新情報を箇条書きにして置いたら、「これは人を見下した告知文で無礼だ」と怒り出し、暴力さえ使われた。それでもそんな自分になってしまっているという現実が全くわからない。だからアルツハイマー型認知症との診断が下された当時は、連れ添う父の方がうつ病になったくらいである。そして、妻の気持ちを尊重してやりたいという父の意思を尊重した結果、結局は母より頭も体も健康だった父が先に逝った。私たちの懸念そのままだった。

 振り返ると、初期~中等期が一番やっかいだった。母は、良く「初耳だ」「そんな大事なことを私に無断で」とすぐにつむじを曲げ、周囲が「結託して作り話をしている」と被害妄想を抱いた。だから大事なことは録音したり写真に撮った。不思議なことに母の場合は、「録音してある」と言うとあっさり主張を引っ込めた。でも5分もせずに忘れたけれど。
 一番醜悪だと思ったのは、現実を説かれ少し強くたしなめられれば、「ああ、わかった。要するに私に早く死ねってことね!」と拗ねてしまうことだ。小心な父にとっては、これが最も堪えるセリフだと知っていて、これを言う。それもその筈、母にとってそれが我を通すための長年の武器でもあった。そういう姑息な「手」に限って、なかなか忘れてくれなかった。
 傍で見ている私の方が腹に据えかねて、何度母と衝突したか知れないが、そんな時も「僕が謝るから許してやってくれ」という父には負けた。「ここまで妻をわがままにしたのは貴方の責任だ」と父を責めたこともあったが、今は気の毒なことをしたと後悔している。
 とにもかくにも、独善家の母が認知症になったことで、家族は疲れ切っていたのだ。
 争いの嫌いな父のためと思ってこちらが折れて仕切り直しするのが常だった。実際、抗いの勢いでぶつけ合ってしまった心無い言葉の暴力によって、傷つくのは(記憶のある)自分ばかり。母の方は一時的に激高しても5分もしないうちに奇麗に忘れてしまっている。
 この時期、母が病んだことで壊れていくのは、むしろ私の方だった。


 納得させるキーワードと画像で作る自分史アルバム

 それでも88歳で買い物中に倒れるまで、父は母の望むままに郷里の自宅で二人きりの生活を維持していた。その間の父の驚くべき寛容と忍耐には頭が下がる。深い愛情なしにはあり得なかったと思う。「どんなになっても、僕のパートナーだからね」という父の言葉が今も耳に残っている。
 どんなに認知症であっても、母に忘れて欲しくなかったのは、父・誠三のこの献身的な愛と、その結果もたらされた母の幸せな人生の軌跡である。
 また、もともとは記憶力の良かった母の立場になってみれば、何も思い出せないことによる悲しみ、苦しみ、自分はどうなるのかという不安があるに違いないとも思った。

 しかし、論理を積み上げる力が皆無になった母に、口頭で「AだからBだ」と幾ら説明しても無駄であった。母に残っているのは理屈ではなく感情だけ。事実で「説得」するのではなく、どんな嘘で脚色した話でも、本人を「納得」させればそれでOKなのだと専門家は言う。
 そこで、とめどなくプライベイトな、しかし母にとって印象的な「A1、A2、A3・・・」を、幸せのハイライトとして解説付きの写真で並べ、「テ・デウム」と題する母の自分史アルバムにしてみようと思い立った。



 「楽しかった」「嬉しかった」「(子や孫が)可愛かった」という、佳き思い出の断片を、このアルバムにより繰り返しなぞっていくうちに、母の心の中に「自分は幸せであった」という総論(=B)が湧き上がりやがて心の奥に根付くこと、そして、亡き父と天上の御父への感謝へと通じていくことにより、日常の母の不安が少しでも軽くなることを願ったのである。

 長年住み慣れた家で幼い娘(私)を育てた時代から、孫たちと海辺の別荘で釣りや貝拾いして過ごした時代、そして老いて同居生活に入り父を見送って今日に至っている、母の人生のアウトラインがなぞれるように、古い写真を入れ、解説をつけて心を込めて編集した。
 その最後の2ページはこんな風に締めくくられている。


  サチさんはこのごろ、涙もろくなりましたね。
  「もう生きていなくてもいいのに」と、すぐに口にされるのが気になります。

  でも、思い出しましょう、
  「野の花、空の鳥を見よ」「思い煩うな」と、イエス様がおっしゃったことを。

  人が長年 生きてきて、悔いが無いと言ったら、嘘になります。
  でも、お互いが良かれと願って、思いやり、精一杯生きた結果なら、
  神様にはきっと許していただけるのではないかしら?

  すべてを、「思し召し」と、受け容れましょう。
  そして、自分が生かされている限り、投げやりにならず、前を向いて、
  一日一日を歩いていきましょうよ。
  この命に感謝して、「テ・デウム!(主を讃えん)」です。

  だって、誠三さんに、生涯かけて愛され、護られてきたサチであり、華ですもの。
  感謝して生きていくことこそが、神様と誠三さんへの恩返しですよ。

  サチさん、
  明日はきっと 今日よりいい日。
  そう信じて、天からお迎えが来るまであと少し、頑張ってみましょうね!

  あなたは決して独りぼっちじゃありません。
  天から見守る方がおられます。
  私たち家族も、地上にいてみんなであなたを見守っていますよ。

  だから、一緒に唱えましょう。
  感謝とともに、「テ・デウム!」と・・・


      *   *   *   *   *   *  

 ~認知症になっても、常に説明を求め、わかろうと自己主張し続けた母に、敬意をこめて~


<16年4月6日追記>

  一人の認知症のケアには、複数の正常な方々による冷静な対応が必須です。 
  しかし、当人の性格やものの考え方、人生のバックグラウンドを知らない第3者は、問題が起きた時、どうしても一般的な対応をするしか無いのに対して、その人を知り尽くしている家族には、本人特有の落し処や納得させるキイ・ワードがわかっているという利点があります。
 このアルバムにおいては、そんな言葉を沢山盛り込みました。母が夕方症候群になったり、夜中に施設内を徘徊して「家に帰る」と言い出した時などは、ヘルパーさんが自室に案内し、このアルバムを開いて一緒に読むことによって落ち着かせることができたそうで、その意味でも大いに活用して頂きました。

 老い方も介護の形態も様々ですので、他にもいろいろな知恵があることでしょうが、私の場合、たった一人で24時間母と向き合い、我慢大会のように同じ問答に晒されながら在宅介護を続けるという生活の中では、身も心も追い詰められてしまい、このような試みをする余裕は決して生まれてこなかったでしょう。 
 このアルバムは、介護の中でも家族以外の行うことが出来るものは他人にお任せし、娘の私でなければ出来ないことのみを追求して行った時、初めて浮かんだアイデア・ツールでした。 

 私が「母思いの優しい娘」でいられたのは、介護看護の多くのプロの助っ人さんたちのお陰に他なりません。 日頃施設で母に接してお世話くださった皆様への心からの感謝を。 そして私と同じような立場にいらっしゃる方に、認知症介護を一人で抱え込まないで、と。家族だからできることをこそ、精一杯してあげるよう、エネルギーを取っておいてください、と申し上げたいと思います。 








2016年3月18日金曜日

いいことには違いないのだろうけれど

 Twitterで流れてきた犯罪被害者の子供たちの奨学金を、返済型ではなく給付型にすることが決定したという情報。

 進歩ではあろうと思うがはぁー今更なのか?しかも何で犯罪被害者の子だけの話?って思う。
 奨学金なんて、どんな普通の子供でも、給付型にして当然ではないか。教育の機会均等を認めた基本的人権にもかかわると思う。

 もっと気持ちが悪いのはその財源だ。
 振り込め詐欺被害者に返せなかったお金を回すと言うのだから。
 被害者同志で相互扶助???

 つくづくこの国って精神が貧しいし、豊かさがあるとしても腐っていると思う。
 それは、豊かさの使い方が間違っているから。

 

2016年2月23日火曜日

障害者差別禁止法について考える

 先週の土曜日に、この4月から施行されるという「障害者差別禁止法」(正式名ではないけれど)について弁護士さんの講義によって学び、実際に障害を持つ子供さんを公立の学校で歩ばせてきた親御さんや、障害者のための就労施設の運営者の方、そして役所の担当者のリレートークを聞く機会を得た。

 それぞれ短い時間だったが、とても感動的な実践のお話を聞くことができた。
条文化された法律というものはいちいち言葉の定義づけから始まるからわかりにくい。しかし、人をハンディキャップがあることだけを理由に差別してはならない、という法の精神そのものは、非常にシンプルでわかりやすいものであるはずだと私は思う。それは、法律だから間違っているのではなく人としての道に反するからしてはならないのだ。

人としての道とは何か?それは社会的な生き物として互いに助け合いながら生きる存在であるということ、どんな個人も一人では生きられず、利益は分かち合い不完全な部分を補い合って生きていく社会的な動物として、人間の本質から外れない生き方であろう。法の作られた根拠となるものは心であり、それはごくごくシンプルな、ほとんど理屈もいらないほど容易に受け入れられ得る、本能に近いものであると思う。

 ところで、「障害だけを理由に、合理的根拠なく不当に差別してはならない…」この「合理的根拠」という言葉に、私はどうも違和感があって引っかかるのだ。
何が「合理的」で何が「不当」か。例えば、ラッシュで皆が急いでいる時に、バスや電車など公共の交通機関の乗り降りに時間をかけることはどうしても嫌がられる。公共の利を優先して「障害者はラッシュ時には乗るな」と大っぴらに言ったら罰せられるだろうが、現実には暗黙の内に私たちは(視線や言葉などの)態度で障害者を排除していることに、どのくらいの人が気づいているのか。「妊婦って障害者だっけ?」とあからさまに優先席の妊婦さんにマタハラ発言をした大学生らがネットで話題になったが、10歳くらいの娘さんの逆鱗以前にどうして周りの大人たちが一斉にその大学生に非難の目や言葉を浴びせなかったのか。私はそのことにショックを覚える。何とカサカサした世の中になってしまったのだろう。高等教育を受けていても人として全く育っていない人間ばかりが日本にはあふれているのである。こんな社会で法律が出来たって、一体実効性は望めるものなのか?と不安を抱くのは私だけなのだろうか。

 私は自分の親からあまり良かったと思う訓示を受けていないのだが、一つだけ良い記憶として残っている言葉がある。それは、障害者を見かけると母から「気が付かないふりをしなさい」と言われたこと。しつこく言われた「思いやりを持て」という言葉は独善家の彼女の口から出ても全く空しく響いたけれど、この「気が付かないふりを」という言葉はとても具体的で意味深な指導だったと思う。この言葉は好奇の視線に晒される方たちへの思いやりのあり方を教えてくれたし、長じてからは寧ろ手助けが必要では?自分が役に立てることはないか?と、それとなく観察する方向に育っていったから。

 私はこれまでボランティアとして自分の長所を生かすことにとても熱心に取り組んできた。その中で、ある時は難病患者さんが医療制度と福祉制度両方の狭間でたらい回しされたり、役所の担当者の心無い言葉に苦しむ姿を尋常でない数見たし、来日した外国人の子供たち対象に日本語を始めとした適応教育指導に携わりつつ、日本の教師も親も学校も自治体も政府も・・・大人たちの意識の閉鎖性、非国際性、視野の狭さに愕然とし失望の連続だったことを思い出す。
障害者差別禁止と言うが、合理的で正当な処遇かを個々の事例ごとに判断する時、本当に障害者個人の権利が公共の利益に駆逐されてしまう可能性はないのか?それを決める司法を信じることにためらいを感じてしまう。むしろ、法律に定めなければ弱者が保護されないような現実の人間社会であることに嘆きさえ覚える。

 「法律には法律の役割があるんです」と、かの弁護士さんは言う。憲法さえも無視され蹂躙されている昨今、この動物的で次元の低い政府のもと、どこまで実効ある運用がなされるか、よくよく見守っていかなければと思う。

2016年2月5日金曜日

コーラスグループ発足20周年記念

 1月31日(日)、所属するコーラスグループの結成から二十年ということで、記念公演が催された。
 私としては途中で指揮者の姿勢に疑問を感じて一旦離脱したのだけれど、やはり歌うことが好き。あちこち乗り換える先を探しては見たのだけれど、結局、ここ以外には「一緒に歌っていきたい」「自分もこのハーモニーに加わりたい」と思えるグループが見つけられなかった。
 と、言うわけで結局復帰した。口実にしていた母の病気が治ったってことにして・・・。

 アマチュアの強み?か、今回も本番の出来は非常に良かった。録音を聞くのが楽しみ。
 そうして、応援してくれた、夫を始めとする家族に感謝である。

 打ち上げの時、先生に言われた。「兎に角、出られてよかったですね。心配したんですよ、大事な人が出られなくなるのかなって」先生が変な発言したせいですとは言えないから、私はモゾモゾ・・・('◇')ゞ
 聴きに来てくれた知り合いのさる有名人(作詞家)にチラッと自分の本心の経緯を明かしたら「流石、華さんだ」と言われた。「芸術の世界にいると、簡単に政治の流れに左右されやすいんです。とにかくお金に困るものですからね。」「彼も苦労していると思う」そして、団員の側が寧ろ引っ張って指揮者を音楽バカにしないよう監視していきましょうよ、という意味のことを言われた。
 ううむ。私は私で、彼は流石だなあと思った。

 素晴らしい詩を素晴らしい曲に載せて歌う時、単に「らしく見せる/聴かせる」だけではなく、心からの表現でありたい。私はたとえアマチュアでも、そんな歌い手をめざそうと思うのだ。


2015年11月20日金曜日

Over the rainbow

 今年も母の老人ホームのクリスマス会に招かれている。

 恒例のクリスマスソングに毎年少しずつ変化を付けて数曲のプログラムを組むのだが、今年はミュージカル「オズの魔法使い」であまりにもポピュラーになったあの曲を入れることにした。
 種明かしをすると、IL DIVO のクリスマスCDに入っていたからなんだけど。

 ジングルベル
 聖夜
 諸人こぞりて
 モミの木

   ふるさと(二部)
   虹の彼方に

 日本語の歌詞は勝手に着けなおすことにした。  こんな感じ。

    「虹のかなたに」

   はるか 虹の彼方に
   揺りかごで聞いた 世界がある

   空は どこまでも青く
   夢を叶えて 鳥は歌う

   ある日星に願い 目覚めれば
   そこはパラダイス
   悩みは甘く溶け 煙と消える
   それこそ願い

   はるか 虹の彼方に
   揺りかごで聞いた 世界がある

   (間奏)

   いつか私も はばたこう
   しあわせを運ぶ 青い鳥とともに


 さて、以上を下書き状態で1日経った。
 ようやくC-durへの移調譜とデュエット用の副旋律の作成が出来て、いよいよ他のボランティアさんたちにFAX出来ることになった。
 やれやれ、ほっとした。今のところ伴奏者は一人しかいないので、下手ながら自分でも練習しておかなくちゃ。
 開催を始めて5年以上たつホームでの懐メロボランティア、今年も楽しいクリスマス会がともに過ごせたら幸せ。